塾長ノート

ピカソの絵って、あれはいったい何なのか

「変な絵」で終わらせず、複数の視点が入り込む絵画として見る

みなさんはピカソの絵を見たことがあるだろうか。

一見すると、「なんだ、ここに描かれている人物は」と思うかもしれない。顔が崩れているように見えるし、どこが正面なのかもよくわからない。

しかし、あれはもちろん意図的なものである。

ピカソの絵は、ただ形を壊しているのではなく、それまでの絵画の見方そのものを変えようとしている。
1908年、モンマルトルのアトリエにいるパブロ・ピカソ
1908年、モンマルトルのアトリエにいるパブロ・ピカソ / Wikimedia Commons, Public Domain

それまでの西洋絵画は、視点がかなり固定されていた

ピカソを考えるとき、まず対比として見ておきたいのは、それまでの西洋絵画である。

近代以前の西洋絵画では、視点はかなり強く固定されていた。遠近法がその典型である。

画面の中では、物体が消失点に向かって再構成される。それによって奥行きが生まれ、平面であるはずの絵が立体的に見える。

これは非常に洗練された技法であるが、一方で、鑑賞者にある一つの見方を強いるところもある。

どこから見ればよいか、どのように見えるべきかが、かなり決まっているのである。

ピカソは、一枚の平面に複数の視点を持ち込んだ

ピカソの絵が面白いのは、そこを崩した点にある。

彼の絵では、一枚の平面の中に複数の面が描かれている。たとえば、横から見た顔と、正面から見た顔とが、同じ画面の中に入り込んでいるように見える。

つまり、一つの対象を一つの視点からだけ描くのではなく、複数の視点から眺めた結果を、一枚に描き込んでいるのである。

これは、平面に対して別種の立体性を持ち込んだとも言える。

もちろん、現実の立体をそのまま再現しているわけではない。だが、「一つの面に一つの視点だけを置く」という前提は明らかに崩されている。

ピカソの絵は、立体を平面らしく描くのではなく、平面の中で多面的に見せようとしている。

20世紀芸術は、それぞれのメディアの限界を押し広げようとした

こうした動きは、ピカソ一人だけの特殊な試みというより、20世紀芸術全体の流れの中で見た方がわかりやすい。

20世紀の芸術は、それぞれのメディアが「自分には何ができるのか」を問い直し、その限界を超えようとする時代だった。

芸術の中に、かなり強く哲学的な視点が入ってくる時代でもある。

デュシャンの《泉》などは、その代表例だろう。芸術作品とはそもそも何なのか、という問いそのものが作品化されている。

そうした文脈で考えるなら、ピカソもまた、絵画の持つ平面性をどう超えるか、あるいはどう捉え直すかを試みていたのだと言える。

平面を超えようとしながら、平面だからこそできることもある

ただし、ここで面白いのは、ピカソが単純に「平面を捨てた」わけではないということである。

むしろ、複数の視点を一枚に同時に載せられるのは、ある意味では平面だからこそ可能でもある。

現実の立体物は、一度に一方向からしか見えない。だが絵画は、一つの平面に、いくつもの見方を重ねてしまうことができる。

そういう意味では、ピカソは絵画の平面性を超えようとしていると同時に、平面だからこそできる多面性を発見しているとも言える。

ここがとても面白い。

これはキュビスムの問題でもある

こうした話は、当然ながらキュビスムの話にもつながっていく。

ピカソの作品を理解しようとするとき、「なぜこんな描き方をするのか」という問いは、結局キュビスムとは何か、という問題に行き着く。

なので、いずれこのノートでもキュビスムそのものについて、もう少しきちんと触れてみたいと思っている。

わからなさを入り口にしていい

ピカソの絵を見て、「よくわからない」と感じるのは自然なことだと思う。

ただ、そのわからなさを「自分には理解できない芸術だ」と切ってしまうのは少し惜しい。

それまでの絵画がどんな見方を前提にしていたのか。ピカソがそこをどうずらしたのか。そう考えてみると、あの絵は単なる奇妙な形の集まりではなくなる。

少なくとも私は、ピカソの絵を見るとき、「変だな」と思うことより先に、「この人は絵画に何をさせようとしているのだろう」と考えたくなる。

そうやって見ていくと、あの絵は少しずつ面白くなってくる。

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