セザンヌは、よく「近代絵画の父」と呼ばれます。
ただ、そう言われても、最初は少しわかりにくい。
セザンヌの絵は、ぱっと見たときにわかりやすく美しいというより、どこか不安定です。
静物画を見ても、テーブルの角度がおかしかったり、果物の位置が不自然だったり、バスケットが妙な場所に置かれていたりする。
遠近法として見れば、かなり怪しい。
でも、不思議なことに、画面全体としては成立している。
ここがセザンヌの面白いところです。
僕はセザンヌを、現実をそのまま写す画家ではなく、世界を画面の中で組み直した画家として見ています。
印象派とはかなり違う方向へ進んだ画家
セザンヌは、印象派と同じ時代の流れの中にいました。
ただ、印象派と同じ方向に進んだ画家かというと、僕はかなり違うと思っています。
印象派は、光や色、空気、場全体の印象に向かった絵画でした。
対象を輪郭で切り出すのではなく、人間が世界をぼやっと全体として受け止める感覚に近づいた。
そこには、ある種のリアルさがありました。
しかし、セザンヌはそこからさらに別の方向へ行きます。
セザンヌの絵には、印象派のような「見えている体験そのものに近づく」リアルさはあまりありません。
むしろ、現実のリアルさからは少し離れています。
その代わりに前面に出てくるのが、画面を構成する意識です。
印象派が「見えている体験」に近づいたのだとすれば、
セザンヌは「見えている世界を画面の中でどう組み直すか」に向かった。
そんな感じがします。
現実として自然ではないのに、画面として自然に見える
セザンヌの静物画を見ると、明らかにおかしい部分があります。
バスケットが不自然な位置に乗っている。
テーブルクロスのたるみ方が妙に見える。
奥行きもはっきりしない。
物の位置関係も、普通の遠近法に従っているようには見えません。
つまり、現実の空間として見ると、かなり不自然です。
ところが、画面全体としてはむしろ自然に見える。
ここが不思議なんですよね。
たとえば、バスケットが現実の空間として正しい大きさや位置にあるかと言われれば、少し怪しい。
でも、画面の構成としては、そのくらい大きく、そこにあってほしい気がします。
もしバスケットがもっと小さかったら、画面の右上が寂しくなる。
つまり、セザンヌの画面では、物が現実のルールではなく、絵画のルールに従って置かれているように見えます。
現実として自然かどうかではなく、画面として成立しているか。
ここが、セザンヌを考える上でかなり重要だと思います。
遠近法の呪いから少し外れている
遠近法は、絵画にとって非常に大きな発明でした。
奥にあるものは小さく、手前にあるものは大きく描く。
消失点を意識し、画面の中に安定した空間を作る。
それによって、西洋絵画は強いリアルさを獲得してきました。
ただ、遠近法は一度身につくと、ある種の呪いのようにも働きます。
僕たちは、どうしても「正しい奥行き」「正しい配置」「正しい空間」を求めてしまう。
でも、セザンヌはそこから少し外れている。
遠近法としては不安定に見える。
でも、画面そのものは崩れていない。
むしろ、遠近法の正しさから外れているからこそ、画面内部の別の秩序が見えてきます。
ここで生まれているのは、現実の空間の安定ではありません。
絵画の内部にある安定です。
対象は現実の側から、画面の側へ移っていく
セザンヌの絵では、対象はまだ消えていません。
果物は果物に見える。
籠は籠に見える。
テーブルはテーブルに見える。
サント・ヴィクトワール山も、山として見える。
しかし、それらはすでに、現実の対象をそのまま画面に移したものではないように感じます。
物は、画面の中で必要な形や大きさや角度に置かれている。
つまり、対象が現実の側だけに属しているのではなく、画面の側にも属し始めている。
対象は、現実の再現物であると同時に、画面を構成する要素になっている。
ここがセザンヌの大きな転換点だと思います。
セザンヌ以前にも、もちろん画面構成はありました。
どんな絵画にも構図があります。
ただ、セザンヌの場合は、現実の空間を自然に見せることよりも、画面そのものを成立させることが前面に出ているように見えます。
だから、見る人は少し不安になります。
現実としては変なのに、絵としては安定している。
このずれが、セザンヌの魅力です。
円筒・球・円錐で自然を見るということ
セザンヌについては、自然を円筒・球・円錐によって捉える、という考え方がよく語られます。
これはとても象徴的です。
もちろん、実際の自然は円筒や球や円錐そのものではありません。
果物は完全な球ではありません。
山も完全な円錐ではありません。
しかし、セザンヌは自然をそのまま写すのではなく、形として捉え直そうとした。
ここに、かなり大きな思い切りがあります。
そう見えるなら、そう置き換えてしまおう。
そんな感覚です。
現実の対象を、幾何学的な形として捉え直し、画面の中で組み直す。
この発想は、のちのキュビスムにかなり強くつながっていくと思います。
キュビスムへのつながり
セザンヌの重要性を考えるとき、キュビスムへの影響は避けて通れません。
セザンヌでは、まだ対象は残っています。
静物は静物として見えるし、風景は風景として見える。
でも、対象はすでに画面の都合で組み直されている。
それがキュビスムになると、さらに進みます。
対象そのものが面に分解され、複数の視点から再構成されていく。
セザンヌは、対象を画面の中で組み直した。
キュビスムは、対象そのものを分解し、画面の中で再構成した。
こう考えると、かなり流れが見えやすいです。
ピカソやブラックが突然あのような絵を描いたのではなく、その前にセザンヌがいた。
セザンヌは、現実を写す絵画から、画面を構成する絵画への道を開いていたのだと思います。
20世紀絵画への入口としてのセザンヌ
ただし、セザンヌをキュビスムだけに結びつけるのは、少し狭い見方かもしれません。
僕の感覚では、セザンヌを皮切りに、20世紀の絵画はどんどん「画面を自分の論理で構成する」方向へ進んでいきます。
ピカソやブラックはもちろんそうです。
でも、それだけではありません。
マティスは、現実の色や形をそのまま再現するより、色彩や装飾性によって画面を成立させていきます。
キリコは、不思議な遠近感や静まり返った空間によって、現実とは違う画面の秩序を作ります。
さらに進めば、モンドリアンのように、対象がほとんど消え、線・面・色による構成そのものに向かう作家も出てきます。
もちろん、これらをすべてセザンヌから直接説明できるわけではありません。
それぞれの作家には、それぞれの背景があります。
ただ、大きな流れとして見るなら、
現実を写す絵画から、画面を構成する絵画へ。
その転換点の一つに、セザンヌがいたのではないかと思います。
写真以後の絵画として見る
ここには、写真の存在も大きいと思います。
写真が登場すると、絵画は現実を正確に写す役割を独占できなくなります。
もちろん、絵画には絵画の写実があります。
ただ、現実の外見を正確に記録するという点では、写真の存在は大きすぎる。
そうなると、絵画は別の問いに向かわざるを得ません。
写真とは違う方法で、画面をどう成立させるのか。
セザンヌの絵は、その問いへの一つの答えだったように思います。
現実をそのまま写すのではなく、現実を画面の中で再構成する。
遠近法としては変でも、絵画としては成立する。
そこに、写真とは違う絵画の可能性があります。
まとめ
セザンヌの絵は、現実の空間として見ると不自然に感じることがあります。
遠近法は揺らぎ、物の位置はおかしく、テーブルクロスやバスケットの置かれ方もどこか変です。
しかし、画面全体としては不思議な安定感があります。
これは、セザンヌが現実をそのまま写しているのではなく、画面の中で世界を組み直しているからだと思います。
セザンヌにとって大切なのは、現実として自然かどうかだけではない。
画面として成立しているかどうかです。
その意味で、セザンヌは「世界を写す絵画」から「世界を組み直す絵画」への転換点にいた画家だったのだと思います。
その先には、ピカソやブラックのキュビスムがあり、さらに広く見れば、マティスやキリコ、モンドリアンのように、それぞれの方法で画面を構成していく作家たちがいます。
セザンヌは、単に後のキュビスムに影響を与えた画家ではありません。
現実をどう写すかではなく、画面をどう成立させるか。
その問いを強く前に出した画家だったのではないでしょうか。